昭和四十六年五月二日 朝の御理解
X御理解第二節 「先の世まで持ってゆかれ、子孫までも残るものは
神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みて
る(尽きる)ということがない」
今日私は一番初めに頂いたのは、御理解のここのところ、白紙のところを頂くのですよね。白紙のところから。しかし頂けませんから、尚お願いさして頂いてここの御理解第二節を頂いたのです。ですからこの白紙ということです。
いろんな問題がありますと、それを解決する手段として、一つ今までのことを白紙でいこうじゃないかというようなこと申します。
この白紙になるということ。いろいろ白紙になることは本当は難しいことだろうと思いますけど、信心を進めていく上には、信心をさして頂く上にはいつもこの白紙という。言うならば、虚心坦懐ということがあります、虚心坦懐であるということ。
それは知ってはおる、いろんなことを知ってはおるけども、それがどんなに些細なことであっても、このことだけではとか、このことを以て信心の稽古をさして貰うと、例えば日々に信心の稽古をさせて頂く上にそれを感じます。
私でもそうでしたけれどね、皆さんはどうでしょうか、朝の御理解を頂かないと今日の信心を進めていく焦点が得られない、そんな感じでしたかね、皆さんはどうでしょうか。御理解を頂きながら、今日はこれで行くぞというようなものを心に感じる。それを頂く。
そのことを一日、そのことに取り組んで信心の稽古をする。または今日は一つこういう信心だと、ここを焦点にというふうに、ここでは信心の稽古をさせて頂く拠り所というか、焦点を、毎日このように頂く訳です。これは皆さんのところで本当にお役に立っておるであろうかと。
この頃時々に思うのですけど、却ってですね、月に何回かしかお参りしない人等は参ってくるたび、皆さんはそう言われるのですね。毎日送って頂く、お参りは出来ませんけど、あの「おかげの泉」を繰り返し読んでおかげ頂いとりますと。または信心の焦点である。この短冊風に書いたものを送って差し上げるのです。これが本当に、信心のその月の拠り所になりますというように響いてくるのですよね。
ところが、日参り夜参りをなさってる方達の場合は何かその希薄なものに、漠然としたものになっておられるのじゃないだろうか、反響が響いてこないのですよ。どうでしょうか皆さん、毎日参っておるから、只こうやって、これを、あれだ大した、その、先月はこうだった。今月はこれで行くぞと言うふうに、例え家族中のものが話し合っておかげを頂くと。
楽とは心が大きくなることだと言ったように、例えば信心を焦点させて頂きますとですね、たしかに楽になれないことの多いのに驚く程しでした。私は「はあ、ここが気を大きくせなければならんところだなあ、ここが心を大きくせなければならんところだなあ」ともういつもそのことがですね、心に掛けておりますと、神様が稽古をさせて下さるという気がします。
今月の焦点でありますところの信心とは、「神様に喜んで頂く心だ」と頂いたのでございますから、やはりそれを本気で私は今月はそこに焦点を置かせて頂こうと思うのです。皆さんもやはりそれを思わせて頂くことは、やはり虚心坦懐にならなければ、ここのところは一応白紙にして、もうこれは新たなこととしてそれに取り組むという姿勢が必要じゃないだろうか。
ですから例えば、ものごと話合いの上でもたつくような時に、今月はとにかく神様に喜んで頂く心を焦点にして考えたら、その話合いなら話合い、問題なら問題が解決するであろうと思うのです。これが家族中で、例えば家庭の中に問題がありましょう。その時に「さあ、大きな心、大きな心」というふうに音頭を取る人があったら問題は解決するであろうとこう思う。解決してきたであろうと思う。
今月の場合でもそうです。「信心すれば誰でも受けることが出来るというのが神徳、しかもみてるということがない」という程しの信心、だから今月はこの信心を焦点にして、日々の御理解はそれをいよいよ深める、いよいよ広くわからせて頂くことのために、お互いの日々の信心生活があるんだということになってこなければならんということになってくるのじゃないかと思う。
「教祖金光大神様が教えて下さったことを、今日もどうぞより広く、より深くわからせて下さい」というお願い、それをあれもこれもというわけじゃありませんから、今月はどうでも神様が喜んで下さるからこそ、真心だというのであるから、真心込めているようであっても誠心誠意であるようであっても、それを神様が喜んで下さるという反響がないとするなら、それはまた考え直さなければならない。
それをもっと広いもの深いものにして行かねばならない。そこで神様の喜んで頂く心、その心が真心であるとするなら、その真心追求、いよいよ広く深くわからせて頂く姿勢を、いつも頂いておかねばならぬ。そういう生き方が、神様の認めて頂けることともなり、また神様の御信用を得ることにもなるのだというふうに思うのですけど、どうでしょうかね。
そこから問題は解決する、そこからおかげが頂いて行けれるというおかげであり、問題の解決であるというものでなからなければ、只毎日お参りをして一生懸命お願いをしておかげを頂くだけでは、おかげを頂いていけれる道は開けてこないと思うのです。何故かというと、只自分の言うておるだけ、自分の願っておることだけになるからです。おかげを受けても、なら誰でも受けられるというか、神様を頂くには程遠いということになります。
ですから、それが神様の心であるとするなら、その心を私どもが頂いて、そこに焦点を置いていく、だから簡単に真心というてもその真心の表しようというものが、手がかりが掴めない。けれども、そこに喜んで下さるということによって、神様が喜んで下さるなという、喜んで下さったという心に響いてくるもの、それは皆さんも体験がおありになろうと思いますけど、「はあ、これが真心だな」と感じることがあります。こちらに響いてくるんです、有難いものが。それが、打てば響くように頂けるようになるところから、信心生活の有難さ楽しさというものがまたある訳なんです。
そのためには、私どもが先ず、日々を白紙でです、行かなければいけない。そしてそれに本気で取り組まなければいけないということになります。こうすることが本当だけどなと思うことがあります。けれども中々それが実行致しません。そうするのが本当だけどなというような思いをですね、私は本気で実行する、本気でそれに取り組ませて頂く時です、心の中に喜びが頂けます。それを実行しなくても別にどうということはない、別にそれで一つも引っ掛からないですから、引っ掛からねば良いというのではない。
信心とは神様に喜んで頂かれる生き方、そういう生活にならせられることなんです。そうすることが本当だということを、すぐ行の上に表して行く、そういう姿勢を取らせて頂くとです、そこから確かに有難いものが頂けます。まあ簡単に言うならね、それなんです信心とは。これもそうするのが本なことばってんが、知っておるけれどもそれを実行しない、それでは信心は進まないし、神様の心に触れていくことが出来ん。
神様は自分にこういうものを求めておられるのを、ということはわかっているけれども、けれどもそれを神様に与えようとしない。
それではですね、自分の願いを聞いてもらいたいという、願いを立てましてもね、それはおかげを受けてもおかげが頂けるといった確信が生まれてこないように思います。
昨日月次祭の皆さんの体験発表なさる時間を、昨日は久富さんが承っておられました。久富繁雄さんが、そして真心とか誠とかいうが、それはこういうことだと先生に教えられたということを発表しとられましたがね。例えば寒い時に「お寒かったですね」と、例えば挨拶するだけでも、何とはなしに例えば寒かっても、その寒さを感じないような気すらするのです。「ああ、寒かったでしょう」と寒いところを例えば帰って参ります。
「只今」と帰ってきた。誰も何とも言わんよりも、「今日は寒かったでしょう」とこう言われる。それだけでも有難い、けれども、さ炬燵が入れてあります。さ火鉢がと火が入れてあったり、炬燵に招じたりする。そして熱いお茶の一杯もくむ。それが誠の信心だというように教えられたというように話しておられます。
だから言うならば、只言うことくらいは言うたに致しましても、それが真心で表さなければね、相手に通じないように、神様もそうだ。こうすることが本当だけれどもと、わかっただけでは、やはりわかっただけである。それを行の上に表して行く。これはもう例えば、信心の手篤い人、信心が進んでいく人はね、ここんところをいうなら見事にやっていく人なんです。
こうすることが本当だということをです、本当に心憎いまでに、それをやっていく人がありますね。やはりおかげを受けております。だからおかげを受けやすいなら、そういう生き方にならしてもらうということを、それはいつも私どもが白紙であらなければならないと。虚心坦懐である。
その上で、今日も本気で広く深く教えをわからせて頂こうという願い、願いを持っておるから、例えば行の上にでも表して行き良いことになく、行くことが楽しいことになってくるのじゃないかとこう思います。
神徳は信心をすれば誰でも受けることが出来る。「信心をすれば誰でも受けることが出来る」というのは今申しますように、月々をまたは日々を、一つ今月はこういう信心で稽古させて頂こう。こういう信心を以て、取り組ませて頂こうという心を先ず起こさせて貰うて、それを本気でそれに取り組んで行く。その中に私の生活のすべてがある。すべてはその中にあるのでございますから。そこに焦点を置くか置かないかということで決まってくると思うのですね。
今月はいよいよ一つ、真心とは神様に喜んで頂く心、または真心で成就しないことはないとか、いわゆる御道の信心は真心一つでおかげを頂いて行く道とかと言われます。
そこで真心とはということに焦点が置かれますと、真心とは神様に喜んで頂く心ということなんですから、果たして自分が行うておることが真心であるか、神様に喜んで頂いておるかどうかということを、自分の心に響き返ってくる心を以て、確かめさせて頂きながら、日々を追わさしてもらうという、これは本気でそれに取り組ませて頂くと、それは些細なこと、ちょっとしたことでも、大きな喜びを頂くことが出来れるチャンスが日々の上にいくらもあると思うのです。
例えばそのきっかけを日々の御理解の中から、またより広く深くわからせて頂くために、教話、朝の御理解ということになってこなければならん。そこにより深くより広くという、はあ、思いもかけないことが神様に喜んで頂くことだなということがわかってくるのですよね。
お道の信心は有難く頂けば、ふぐの料理のようで、それこそ「天下一品の珍味だ」と言われております。「有難く頂いて帰れば船にも車にも積めぬ程の神徳がある」と教えておられます。有難く頂いて帰れば、それは船にも車にも積めぬ程しの神徳があると。お道の信心は、それこそ天下一品の珍味と思われる程しの良い味わいを頂くことの出来る信心である。有難く頂くというところに、私どもが白紙にならなければならないということ。
その味わいというものが、有難く教えを頂いて帰る。しかもその有難く頂いて帰って、その教えがいわゆる行の上に表されるまでが、有難く頂くことになるのだとこう思う。有難い食物を頂いて帰る。それを帰って食する。そこに味わいがあるのです。その味わいを日々味あわせて頂く生き方こそが、車にも船にも積めぬ程の神様になってくるのだとこう思うのです。
それには、これが教えを頂いて有難い、本当のことのまた本当のことを教えて頂く。その本当のことを、本気で行の上に表して行くということ。そこから、言わば天下一品の珍味だなあと思われるような味わいのおかげが受けられる。それを知っておりながら、それを味合うともしない、行の上に表そうともしない、それが何回も重なっていくところに、ふぐのような珍味であると同時に、またそれこそ命にかかわるようなことにまでなってくるようになるのです。
やはりふぐの料理のようなものだということ。生き生きとした有難さの頂けれる信心を頂きながら、それを頂こうとしない、本気で水洗いしようともしないで頂くところに、命にもかかわるようなことにもなってくるのです。
いわゆる生きた働きをそこに感じさせて頂く、それを感じさせて頂くためには、神様と通ずる、通う、それは真心である、だからその真心を追求していく、それをいよいよ深いもの広いものにしていく。だからおかげも深く、広くなっていくところになるのです。私は本当にそう思うのですね。信心の稽古をさせて頂くというのですから、そこんところの稽古を一つしっかりやらして頂きたい。
今月は言うならば、大きいと言えば大きいですね。お道の信心でいう真心と言われるのは、もうそれ一筋ですから、その真心というのは神様に喜んで頂く心だとこう。その神様が喜んで下さることを、響き返ってくる。それを心に受けとめられる程しの状態を、今日私は白紙になれというふうに申しました。素直に白紙になって、そのことに取組ませて頂くということは、本気でその気になるということ。そこから信心生活の言うなら有難い、信心生活の楽しさをです、いよいよ本当のものにして行きたいと思います。
今月はどうでも一つ、真心とは神様に喜んで頂くという、ここんところをです、焦点に頂く、そのためにはまず、日々をです、一つ白紙になった気持ちで、御理解を拝聴する。そこからヒントを頂いて、より深い広いものにしていこうと、これは後々の信心によって違ってまいりましょう。その生き方、また結果も、けれどもそこに焦点を置くということだけは同じでなければならんと思いますね。
どうぞ。